表紙に使ったセピア色のこの写真は、大正時代でしょうか。オシャレな着物姿で保津川下り。
▼編集内容を一部ご紹介
かつて、保津川には丹波山地で切り出された材木を、京の都へと運ぶ筏流しが盛んに行なわれていました。
この筏で運ばれた材木で京の都を造営し、暮らしを支えてきたのです。筏流しはやがて舟下りに姿を変え、現在では「保津川下り」として多くの人に親しまれています。深い淵あり、激流あり、四季を移して流れる保津川の渓谷を縫って、丹波の国「亀岡」から京の名勝「嵐山」までの約16キロ、2時間の自然と触れ合う船旅です。
丹波高地に源を発し、山間をめぐりめぐって園部から亀岡市に至り、再び山間の峡谷16kmを流れて天下の名勝嵐山につき、鴨川と合流して淀川に入る。この川の亀岡から嵯峨嵐山(京都市右京区)までを保津川といいます。
保津川下りの中心は、請田神社(うけたじんじゃ)から渡月橋の手前まで続く険しい峡谷です。手に汗握るスリリングな瀬とゆったりとした淵を回遊しながら、舟は下って行きます。保津川に沿って走るトロッコ列車と川下りを合わせ、ここには年間130万人もの観光客が訪れています。保津川流域は、四季を通じて美しい彩りの山容を見せます。「春」桜・川風に散る花吹雪、「夏」岩にさくつつじ、「秋」紅葉する山々、「冬」お座敷暖房船から見る雪の峡谷 その姿は多くの人々を魅了しています。
保津川下りのシーズン到来です。まだ肌寒い中地元の人々も大勢参加し、楽しいイベントも開催されます。今年も舟の運行の安全、船頭総勢の安全を祈願します。
愛宕山が雪化粧をした寒空の下、オープン船開幕を迎える事ができました。 お座敷暖房船に風船を詰めて出航の合図を待ちます。6隻に分乗されたお客様が嵐山へと向かいます。この光景は、いつみても感動させてくれます。今年も船頭一同「安心、安全」をモットーにお客様に保津川下りに又行こうと思って頂けますよう精一杯頑張ります。
(2011年3月「船頭ブログ」より)
丹波山地から切り出された良質の天然木は、古くは長岡京・平安京造営のための材木として使用されていました。その材木の運搬手段として、筏を組み、桂川を流したのが筏流しの始まりです。室町末期、京都で消費される材木のほとんどが丹波材でまかなわれるようになり、保津川の水運はますます発展していきました。1606年(慶長11年)、嵯峨の豪商であった角倉了以は幕府の許可を得て世木より嵯峨までの水路を開きます。これにより舟運も可能となり、主に米殻などが運ばれるようになりました。
明治32年から、遊船として観光客を乗せた川下りがはじまりました。時代の流れとともに、筏や荷船は姿を消しましたが、保津川峡谷の大自然は昔と変わらぬ姿を今に残しています。岩に残る棹の跡や、もどり舟を人力で引き上げた綱の跡などが、岩にくっきりと刻まれており、舟下りの長い歴史を物語っています。
保津川下りの歴史
平安時代以前 (長岡京に都があった時代)
784年〜794年 長岡京遷都に使用する材木を筏流しで運搬する。 室町・鎌倉時代
筏問屋の出現 江戸時代保津川の開削工事が積極的に行われるようになる。 1606年(慶長11年) (慶長11年)角倉了以が幕府の許可を得て世木より嵯峨までの水路を開く。 1664 年(寛文4年) 亀山運上山本村の御用掛問屋が行っていた筏流しの取り締まりを亀山藩が行うことなる。 幕府への運上木として一筏につき20分の1の原木を徴収(運上税)した。 明治時代1899 年(明治32年)
京都鉄道が開通 昭和・平成1606年(慶長11年) 阪急電鉄が一時経営 1973年(昭和48年) 保津川遊船企業組合設立 1991年(平成3年) 嵯峨野観光線・トロッコ列車運行開始 1993年(平成5年) 船頭採用が代々受け継がれてきた世襲制から一般公募となる。 2011年(平成23年) 新乗船場の営業を開始 |
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