制作事例-5 よみがえる長岡京

幻の都から実在へ 日本の歴史を変えた中山修一

「長岡京市ふるさとガイドの会」様とのタイアップ企画

▼編集内容を一部ご紹介

長岡京は、延暦3年(784)から延暦13年(794)まで山城国乙訓郡、現在の京都府長岡京市、乙訓郡大山崎町、向日市、京都市西京区に存在した日本の首都でした。
平城京から北へ40km。桓武天皇の命により遷都して造営された東西4.3km・南北5.3kmに広がる広大な都でした。長岡京の近くには桂川や宇治川、木津川という3本の大きな川が淀川となる合流点があり、全国からの物資を船で効率よく運ぶことができました。水運の良さに加え、山陽道・山陰道とのかかわりから陸上交通が発達し、多くの人びとが訪れにぎわっていました。ところが、遷都からわずか10年で平安京へ都が遷され、廃都となります。わずかな期間に幕を閉じた“幻の都”長岡京は、やがて人々から忘れ去られ歴史の舞台から姿を消しました。
 しかし、昭和29年(1954)高校教員であった中山修一氏によって、その存在が立証され、完成度の高い都であったことが徐々に明らかになってきました。

 

長岡京はどんな都だったのでしょう?

■時 代:「延暦3年(784)11月11日~延暦13年(794)10月22日までの都
■場 所:現在の長岡京市、向日市、大山崎町および京都市の三市一町にまたがっています。
■規 模:平城京「奈良」、平安京「京都」に匹敵する広さ東西4.3Km 南北5.3Km
■完成度:
朝廷の宮殿や貴族の屋敷は完成し、一部は新築した物を改築した形跡も残っています。政治の中心である大極殿(だいごくでん)、朝堂院(ちょうどういん)などは向日市域に、市(いち)などの経済の中心は長岡京市域に、また、都の玄関口にあたる港(津)は大山崎町と京都市伏見区淀付近にありました。条坊(じょうぼう)制によって整然と区画され、碁盤の目に作られた街の通りや側溝は80%完成し、民家も1万数千棟以上は出来ていたと推定されています。東・西の市場もあり、にぎやかな庶民の営みがありました。その頃の人口は10万人以上といわれています。また、延暦11年には『お葬式が派手過ぎるので慎むよう』との高札が出るほどにぎわっていたといいます。

長岡京の人々の暮らし

ひとりの学者の熱意が日本の歴史を塗りかえた

発掘調査によって少しずつ明らかになる長岡宮の姿

 
『中山修一という人がいなければ、彼が行動しつづけることがなかったならば、現在の長岡宮・京の調査・研究はあり得ませんでした。ひとりの人間の情熱と行動とがこれほど大きな成果を生み出すことがある、という事実は人に勇気を与えます。日本の文化財保護の歴史の中で中山修一さんの名は不滅です』 ( 佐原 眞・元国立歴史民俗博物館長 )

 


長岡京市立 中山修一記念館

平成14年9月1日、故中山修一先生のご遺族により寄付された土地及び建物を利用し、中山修一記念館が開館しました。
先生の足跡と功績、発掘調査研究の成果を一目で見られる記念館として整備され、先生の数千冊の蔵書が閲覧できます。
またガイドが常駐し、ていねいな解説を行っています。
開館日 午前10時から午後4時まで(休館日/火曜日・年末年始『12月28日~1月4日』)
所在地 京都府長岡京市久貝3丁目3番3号 
電 話 075-957-7176
http://www.city.nagaokakyo.kyoto.jp/contents/ctg24.html